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「それでコンサート?ピアニストになる夢はおしまいよ。二ヶ月入院して、退院して。病院に入って少ししてから小指は動くようになったから、音大に復学してなんとか卒業することはできたわよ。でもね、もう何かか消えちゃったのよ。何かこう、エネルギーの玉のようなものが、体の中から消えちゃってるのよ。医者もプロのピアニストになるには神経が弱すぎるからよした方がいいって言うしね。それで私、大学を出てからは家で生徒をとって教えていたの。でもそういうのって本当に辛かったわよ。まるで私の人生そのものがそこでばたっと終っちゃたみたいなんですもの。私の人生のいちばん良い部分が二十年ちょっとで終っちゃったのよ。そんなのってひどすぎると思わない?私はあらゆる可能性を手にしていたのに、気がつくともう何もないのよ。誰も拍手してくれないし、誰もちやほやしてくれないし、誰も賞めてくれないし、家の中にいて来る日も来る日も近所の子供にバイエルだのソナチネ教えてるだけよ。惨めな気がしてね、しょっちゅう泣いてたわよ。悔しくってね。私よりあきらかに才能のない人がどこのコンクールで二位とっただの、どこのホールでリサイタル開いただの、そういう話を聞くと悔しくってぼろぼろ涙が出てくるの。
両親も私のことを腫れものでも扱うみたいに扱ってたわ。でもね、私にはわかるのよ、この人たちもがっかりしてるんだなあって。ついこの間まで娘のことを世間に自慢してたのに、今じゃ精神病院帰りよ。結婚話だってうまく進められないじゃない。そういう気持ってね、一緒に暮らしているとひしひしつたわってくるのよ。嫌で嫌でたまんなかったわ。外に出ると近所の人が私の話をしているみたいで、怖くて外にも出られないし。それでまたボンッ!よ。ネジが飛んで、糸玉がもつれて、頭が暗くなって。それが二十四のときでね、このときは七ヶ月療養所に入ってたわ。ここじゃなくて、ちゃんと高い塀があって門の閉っているところよ。汚くて。ピアノもなくて……私、そのときはもうどうしていいかわかんなかったわね。でもこんなところ早く出たいっていう一念で、死にもの狂いで頑張ってなおしたのよ。七ヶ月――長かったわね。そんな風にしてしわが少しずつ増えてったわけよ」
レイコさんは唇を横にひっぱるようにのばして笑った。
「病院を出てしばらくしてから主人と知り合って結婚したの。彼は私よりひとつ年下で、航空機を作る会社につとめるエンジニアで、私のピアノの生徒だったの。良い人よ。口数が少ないけれど、誠実で心のあたたかい人で。彼が半年くらいレッスンをつづけたあとで、突然私に結婚してくれないがって言い出したの。ある日レッスンが終ってお茶飲んでるときに突然よ。私びっくりしっちゃたわ。それで私、彼に結婚することはできないって言ったの。あなたは良い人だと思うし好意を抱いてはいるけれど、いろいろ事情があってあなたと結婚することはできないんだって。彼はその事情を聞きたがったから、私は全部正直に説明したわ。二回頭がおかしくなって入院したことがあるんだって。細かいところまできちんと話したわよ。何が原因で、それでこういう具合になったし、これから先だってまた同じようなことが起るかもしれないってね。少し考えさせてほしいって彼が言うからどうぞゆっくり考えて下さいって私言ったの。全然急がないからって。次の週彼がやってきてやはり結婚したいって言ったわ。それで私言ったの。三ヶ月待ってって。三ヶ月二人でおつきあいしましょう。それでまだあなたに結婚したいと言う気持があったら、その時点で二人でもう一度話しあいましょうって。
三ヶ月間、私たち週に一度デートしたの。いろんなところに行って、いろんな話をして。それで私、彼のことがすごく好きになったの。彼と一緒にいると私の人生がやっと戻ってきたような気がしたの。二人でいるとすごくほっとしてね、いろんな嫌なことが忘れられたの。ピアニストになれなくったって、精神病で入院したことがあったって、そんなことで人生が終っちゃったわけじゃないんだ、人生には私の知らない素敵なことがまだいっぱい詰まっているんだって思ったの。そしてそういう気持にさせてくれたことだけで、私は彼に心から感謝したわ。三ヶ月たって、彼はやはり私と結婚したいって言ったの。『もし私と寝たいのなら寝ていいわよ』って私は言ったの。『私、まだ誰とも寝たことないけれど、あなたのことは大好きだから、私を抱きたければ抱いて全然構わないのよ。でも私と結婚するっていうのはそれとはまったく別のことなのよ。あなたは私と結婚することで、私のトラブルも抱えこむことになるのよ。これはあなたが考えているよりずっと大変なことなのよ。それでもかまわないの』って。
構わないって彼は言ったわ。僕はただ単に寝たいわけじゃないんだ、君と結婚したいんだ、君の中の何もかも君と共有したいんだってね。そして彼は本当にそう思ってたのよ。彼は本当に思っていることしか口に出さない人だし、口にだしたことはちゃんと実行する人なのよ。いいわ、結婚しましょうって言ったわ。だってそう言うしかないものね。結婚したのはその四ヶ月後だったかな。彼はそのことで彼の両親と喧嘩して絶縁しちゃったの。彼の家は四国の田舎の旧家でね、両親が私のことを徹底的に調べて、入院歴が二回あることがわかっちゃったのよ。それで結婚に反対して喧嘩になっちゃったわけ。まあ反対するのも無理ないと思うけれどね。だから私たち結婚式もあげなかったの。役所に行って婚姻届けだして、箱根に二泊旅行しただけ。でもすごく幸せだったわ、何もかもが。結局私、結婚するまで処女だったのよ、二十五歳まで。嘘みたいでしょう?」
レイコさんはため息をついて、またバスケット?ボールを持ちあげた。
「この人といる限り私は大丈夫って思ったわ」とレイコさんは言った。「この人と一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだろうってね。ねえ、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。この人にまかせておけば大丈夫、少しでも私の具合がわるくなってきたら、つまりネジがゆるみはじめたら、この人はすぐに気づいて注意深く我慢づよくなおしてくれる――ネジをしめなおし、糸玉をほぐしてくれる――そういう信頼感があれば、私たちの病気はまず再発しないの、そういう信頼感が存在する限りまずあのボンッ!は起らないのよ。嬉しかったわ。人生ってなんて素晴らしいんだろうって思ったわ。まるで荒れた冷たい海から引き上げられて毛布にくるまれて温かいベッドに横たえられているようなそんな気分ね。結婚して二年後に子供が生まれて、それからはもう子供の世話で手いっぱいよ。おかげで自分の病気のことなんかすっかり忘れちゃったくらい。朝起きて家事して子供の世話して、彼が帰ってきたらごはん食べさせて……毎日毎日がそのくりかえし。でも幸せだったわ。私の人生の中でたぶんいちばん幸せだった時期よ。そういうのが何年つづいたかしら?三十一の歳まではつづいたわよね。そしてまたボンッ!よ。破裂したの」
レイコさんは煙草に火をつけた。もう風はやんでいた、煙はまっすぐ上に立ちのぼって夜の闇の中に消えていった。気がつくと空には無数の星が光っていた。
「何かがあったんですか?」と僕は訊いた。
「そうねえ」とレイコさんは言った。「すごく奇妙なことがあったのよ。まるで何かの罠か落とし穴みたいにそれが私をじっとそこで待っていたのよ。私ね、そのこと考えると今でも寒気がするの」彼女は煙草を持っていない方の手でこめかみをこすった。「でもわるいわね、私の話ばかり聞かせちゃって。あなたせっかく直子に会いにきたのに」
「本当に聞きたいんです」と僕は言った。「もしよければその話を聞かせてくれませんか?」
「子供が幼稚園に入って、私はまた少しずつピアノを弾くようになったの」とレイコさんは話しはじめた。「誰のためでもなく、自分のためにピアノを弾くようになったの。バッハとかモーツァルトとかスカルラッティーとか、そういう人たちの小さな曲から始めたのよ。もちろんずいぶん長いブランクがあるからなかなか勘は戻らないわよ。指だって昔に比べたら全然思うように動かないしね。
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