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もちろんそれほど上手くないわよ。専門的な学校に入ってやっているわけでもないし、レッスンだって通ったり通わなかったりしでずいぶん我流でやってきたわけだから。きちっと訓練された音じゃないのよ。もし音楽学校の入試の実技でこんな演奏したら一発でアウトね。でもね、聴かせるのよ、それが。つまりね全体の九〇パーセントはひどいんだけれど、残りの一〇パーセントの聴かせどころをちやんと唄って聴かせるのよ。それもバッハのインベンションでよ!私それでその子にとても興味を持ったの。この子はいったい何なんだろうってね。
そりゃね、世に中にはもっともっと上手くバッハを弾く若い子はいっぱいいるわよ。その子の二十倍くらい上手く弾く子だっているでしょうね。でもそういう演奏ってだいたい中身がないのよ。かすかすの空っぽなのよ。でもその子のはね、下手だけれど人を、少なくとも私を、ひきつけるものを少し持ってるのよ。それで私、思ったの。この子なら教えてみる価値はあるかもしれないって。もちろん今から訓練しなおしてプロにするのは無理よ。でもそのときの私のように――今でもそうだけれど――楽しんで自分のためにピアノを演奏することのできる幸せなピアノ弾きにすることは可能かもしれないってね。でもそんなのは結局空しい望みだったのよ。彼女は他人を感心させるためにあらゆる手段をつかって細かい計算をしてやっていく子供だったのよ。どうすれば他人が感心するか、賞めてくれるかっていうのはちゃんとわかっていたのよ。どういうタイプの演奏をすれば私をひきつけられるかということもね。全部きちんと計算されていたのよ。そしてその聴かせるところだけをとにかく一所懸命何度も何度も練習したんでしょうね。目に浮ぶわよ。
でもそれでもね、そういうのがわかってしまった今でもね、やはりそれは素敵な演奏だったと思うし、今もう一回あれを聴かされたとしても、私やっぱりどきっとすると思うわね。彼女のずるさと嘘と欠点を全部さっぴいてもよ。ねえ、世の中にはそういうことってあるのよ」
レイコさんは乾いた声で咳払いしてから、話をやめてしばらく黙っていた。
「それでその子を生徒にとったんですか?」と僕は訊いてみた。
「そうよ。週に一回。土曜日の午前中。その子の学校は土曜日もお休みだったから。一度も休まなかったし、遅刻もしなかったし、理想的な生徒だったわ。練習もちょんとやってくるし。レッスンが終ると、私たちケーキを食べてお話したの」レイコさんはそこでふと気がついたように腕時計を見た。「ねえ、私たちそろそろ部屋に戻った方がいいんじゃないかしら。直子のことがちょっと心配になってきたから。あなたまさか直子のことを忘れちゃったんじゃないでしょうね?」
「忘れやしませんよ」と僕は笑って言った。「ただ話しに引きこまれてたんです」
「もし話のつづき聞きたいなら明日話してあげるわよ。長い話だから一度には話せないのよ」
「まるでシエラザー??ですね」
「うん、東京に戻れなくなっちゃうわよ」と言ってレイコさんも笑った。
僕らは往きに来たのと同じ雑木林の中の道を抜け、部屋に戻った。ロウソクが消され、居間の電灯も消えていた。寝室のドアが開いてベットサイドのランプがついていて、その仄かな光が居間の方にこぼれていた。そんな薄暗がりのソファーの上に直子がぽつんと座っていた。彼女はガウンのようなものに着替えていた。その襟を首の上までぎょっとあわせ、ソファの上に足をあげ、膝を曲げて座っていた。レイコさんは直子のところに行って、頭のてっぺんに手を置いた。
「もう大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ごめんなさい」と直子が小さな声で言った。それから僕の方を向いて恥かしそうにごめんなさいと言った。「びっくりした?」
「少しね」と僕はにっこりとして言った。
「ここに来て」と直子は言った。僕は隣に座ると、直子はソファーの上で膝を曲げたまま、まるで内緒話でもするみたいに僕の耳もとに顔を近づけ、耳のわきにそっと唇をつけた。「ごめんなさい」ともう一度直子は僕の耳に向かって小さな声で言った。そして体を離した。
「ときどき自分でも何がどうなっているのかわかんなくなっちゃうことがあるのよ」と直子は言った。
「僕はそういうことしょっちゅうあるよ」
直子は微笑んで僕の顔を見た。ねえ、よかったら君のことをもっと聞きたいな、と僕は言った。ここでの生活のこと。毎日どんなことしているとか。どんな人がいるとか。
直子は自分の一日の生活についてぼつぼつと、でもはっきりとした言葉で話した。朝六時に起きてここで食事をし。鳥小屋の掃除をしてから、だいたいは農場で働く。野菜の世話をする。昼食の前かあとに一時間くらい担当医との個別面接か、あるいはブループ?ディスカッションがある。午後は自由カリキュラムで、自分の好きな講座かあるいは野外作業かスポーツが選べる。彼女フランス語とか編物とかピアノとか古代史とか、そういう講座をいくつかとっていた。
「ピアノはレイコさんに教わってるの」と直子は言った。「彼女は他にもギターも教えてるのよ。私たちみんな生徒になったり先生になったりするの。フランス語に堪能な人はフランス語教えるし、社会科の先生してた人は歴史を教えるし、編物の上手な人は編物を教えるし。そういうのだけでもちょっとした学校みたいになっちゃうのよ。残念ながら私には他人に教えてあげられるようなものは何もないけれど」
「僕にもないね」
「とにかく私、大学にいたときよりずっと熱心に学んでいるわよ、ここで。よく勉強もしているし、そういうのって楽しいのよ、すごく」
「夕ごはんのあとはいつも何するの?」
「レイコさんとおしゃべりしたり、本を読んだり、レコードを聴いたり、他の人の部屋にいってゲームをしたり、そういうこと」と直子は言った。
「私はギターの練習をしたり、自叙伝を書いたり」とレイコさんは言った。
「自叙伝?」
「冗談よ」とレイコさんは笑って言った。「そして私たち十時くらいに眠るの。どう、健康的な生活でしょう?ぐっすり眠れるわよ」
僕は時計を見た。九時少し前だった。「じゃあもうそろそろ眠いんじゃないですか?」
「でも今日は大丈夫よ、少しくら遅くなっても」と直子は言った。「久しぶりだからもっとお話がしたいもの。何かお話して」
「さっき一人でいるときにね、急にいろんな昔のこと思い出してたんだ」と僕は言った。「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる?海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな」
「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐじゃぐじゃに溶けたチョコレートを持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね」
「そうだね。その時、君はたしかに長い詩を書いてたな」
「あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ」とくすくす笑いながら直子は言った。「どうしてそんなこと急に思い出したの?」
「わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹桃とか、そういうのがさ、ふと浮かんできたんだよ」と僕は言った。「ねえ、キズキはあのときよく君の見舞いに行ったの?」
「見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧嘩したんだから、あとで。はじめに一度来て、それからあなたと二人できて、それっきりよ。ひどいでしょう?最初にきたときだってなんだかそわそわして、十分くらいで帰っていったわ。オレンジ持ってきてね。ぶつぶつよくわけのわからないこと言って、それからオレンジをむいて食べさせてくれて、またぶつぶつわけのわからないこと言って、ぷいって帰っちゃったの。
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