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僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。僕は家に戻って縁側に座り、雨の降りしきる夜の庭を眺めながら頭の中にいくつかの文章を並べてみた。それから机に向って手紙を書いた。「こういう手紙をレイコさんに書かなくてはならないというのは僕にとってはたまらなく辛いことです」と僕は最初に書いた。そして緑と僕のこれまでの関係をひととおり説明し、今日二人のあいだに起ったことを説明した。
「僕は直子を愛してきたし、今でもやはり同じように愛しています。しかし僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです。そして僕はその力に抗しがたいものを感じるし、このままどんどん先の方まで押し流されていってしまいそうな気がするのです。僕は直子に対して感じるのはおそらく静かで優しく澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。僕はどうしていいかわからなくてとても混乱しています。決して言いわけをするつもりではありませんが、僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでした。誰かに傷つけたりしないようにずっと注意してきました。それなのにどうしてこんな迷宮のようなところに放りこまれてしまったのか、僕にはさっぱりわけがわからないのです。僕はいったいどうすればいいのでしょう?僕にはレイコさんしか相談できる相手がいないのです」
僕は速達切手を貼って、その夜のうちに手紙をポストに入れた。
レイコさんから返事が来たのはその五日後だった。
「前略。
まず良いニュース。
直子は思ったより早く快方に向っているそうです。私も一度電話で話したのですが、しゃべる方もずいぶんはっきりしてました。あるいは近いうちにここに戻ってこられるかもしれないということです。
次にあなたのこと。
そんな風にいろんな物事を深刻にとりすぎるのはいけないことだと私は思います。人を愛するというのは素敵なことだし、その愛情が誠実なものであるなら誰も迷宮に放りこまれたりはしません。自信を持ちなさい。
私の忠告はとても簡単です。まず第一に緑さんという人にあなたが強く魅かれるのなら、あなたが彼女と恋に落ちるのは当然のことです。それはうまくいくかもしれないし、あまりうまくいかないかもしれない。しかし恋というのはもともとそういうものです。恋に落ちたらそれに身をまかせるのが自然というものでしょう。私はそう思います。それも誠実さのひとつのかたちです。
第二にあなたが緑さんとセックスするかしないかというのは、それはあなた自身の問題であって、私にはなんとも言えません。緑さんとよく話しあって、納得のいく結論を出して下さい。
第三に直子にはそのことを黙っていて下さい。もし彼女に何か言わなくてはならないような状況になったとしたら、そのときは私とあなたの二人で良策を考えましょう。だから今はとりあえずあの子には黙っていることにしましょう。そのことは私にまかせておいて下さい。
第四にあなたはこれまでずいぶん直子の支えになってきたし、もしあなたが彼女に対して恋人としての愛情を抱かなくなったとしても、あなたが直子にしてあげられることはいっぱいあるのだということです。だから何もかもそんなに深刻に考えないようにしなさい。私たちは(私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっくるめた総称です)不完全な世界に住んでいる不完全な人間なのです。定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして銀行預金みたいにコチコチと生きているわけではないのです。でしょう?
私の個人的感情を言えば、緑さんというのはなかなか素敵な女の子のようですね。あなたが彼女に心を魅かれるというのは手紙を読んでいてもよくわかります。そして直子に同時に心を魅かれるというのもよくかわります。そんなことは罪でもなんでもありません。このただっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美しい湖にボートを浮かべて、空もきれいだし湖も美しいと言うのと同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。偉そうなことを言うようですが、あなたもそういう人生のやり方をそろそろ学んでいい頃です。あなたはときどき人生を自分のやり方にひっぱりこもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったらもう少し心を開いて人生の流れに身を委ねなさい。私のような無力で不完全な女でもときには生きるってなんて素晴らしいんだろうと思うのよ。本当よ、これ!だからあなただってもっともっと幸せになりなさい。幸せになる努力をしなさい。
もちろん私はあなたと直子がハッピー?エンディングを迎えられなかったことは残念に思います。しかし結局のところ何が良かったなんて誰にかわるというのですか?だからあなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せになりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、それを逃すと一生悔やみますよ。
私は毎日誰に聴かせるともなくギターを弾いています。これもなんだかつまらないものですね。雨の降る暗い夜も嫌です。いつかまたあなたと直子のいる部屋で葡萄を食べながらギターを弾きたい。
ではそれまで。
六月十七日
石田鈴子 」
十一
直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりのように誰にもとめることのできないことなのだと言ってくれた。しかしそれに対して僕は返事を書かなかった。なんていえばいいのだ?それにそんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界に存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。
八月の末にひっそりとした直子の葬儀が終わってしまうと、僕は東京に戻って、家主にしばらく留守にしますのでよろしくと挨拶し、アルバイト先に行って申し訳ないが当分来ることができないと言った。そして緑に今何も言えない、悪いと思うけれどもう少し待ってほしいという短い手紙を書いた。それから三日間毎日、映画館をまわって朝から晩まで映画を見た。東京で封切られている映画を全部観てしまったあとで、リュックに荷物をつめ、銀行預金を残らずおろし、新宿駅に行って最初に目についた急行列車に乗った。
いったいどこをどういう風にまわったのか、僕には全然思い出せないのだ。風景や匂いや音はけっこうはっきりと覚えているのだが、地名というものがまったく思いだせないのだ順番も思いだせない。僕はひとつの町から次の町へと列車やバスで、あるいは通りかかったトラックの助手席に乗せてもらって移動し、空地や駅や公園や川辺や海岸やその他眠れそうなところがあればどこにでも寝袋を敷いて眠った。交番に泊めてもらったこともあるし、墓場のわきで眠ったこともある。人通りの邪魔にならず、ゆっくり眠れるところならどこだってかまわなかった。僕は歩き疲れた体を寝袋に包んで安ウィスキーごくごくのんで、すぐ寝てしまった。親切な町に行けば人々は食事を持ってきてくれたたり、蚊取線香を貸してくれたりしたし、不親切な町では人々は警官を呼んで僕を公園から追い払わせた。どちらにせよ僕にとってはどうでもいいことだった。僕が求めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけだった。
金が乏しくなると僕は肉体労働を三、四日やって当座の金を稼いた。どこにでも何かしらの仕事はあった。僕はどこにいくというあてもなくただ町から町へとひとつずつ移動していった。世界は広く、そこには不思議な事象や奇妙な人々充ち充ちていた。
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