第14章

小说:窗边的小豆豆(中文版+日文版)作者:[日]黑柳彻子字数:3543更新时间 : 2017-07-30 10:15:55

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そして、お風呂から海に行こうと思うときは、横ばいになって五メートルくらい歩くと、段々ぬるくなってきて、それからもっといくと、つめたくなるから、「そこからは海だ!」とわかるのだった。だから、みんな海で泳いで寒くなると、大急ぎで、暖かい温泉にもどって、首まで使った。そうすると、なんだか、家に帰ったみたいな気がした。おかしなことは、海の部分に行けば、海水帽をぴっちりかぶって泳ぐ子供達が、見たところは海と同じなのに、温泉に入っているときは、輪になって気楽な恰好で、話しをしていることだった。きっと、はたから誰かが見たら、結局、小学生でも温泉に入ると、お爺さんやお婆さんと同じ、と思ったかも知れなかった。その頃の海は、ほとんど、よその人がいなくて、海岸も温泉も、トモエの生徒の専用みたいだった。みんな、精一杯,この珍しい、温泉海水浴を楽しんだ。だから、夕方、別荘に帰ったときは、どの子も、あんまり永く水につかっていたので、指先の皮がシワシワになっていたほどだった。夜は夜で、おふとんに入ってから、交代に“おばけ”の話しをした。トットちゃん達一年生は、みんな、怖くて泣いた。そして、泣きながら、「それから?」というのだった。この土肥温泉の三日間は、これまでの、学校の中での野宿とか、胆試しと違って、実際の生活だった。例えば、晩御飯の材料を買いに、順番で、八百屋さんや魚屋さんに行かされたし、知らない大人のひとたちから、「どこの学校の生徒?」とか「どこから来たの? 」と聞かれたとき、ちゃんと答えなきゃ、ならなかった。それから、林の中で迷子になりそうになった子もいたし、遠くまで泳いでしまって、帰ってこられなくなり、みんなを心配させた子もいた。浜辺に落ちて板ガラスで足を切った子もいた。そのたびに、みんなは、どうしたら、一番自分が役に立つか、考えた。でも、楽しいことも多かった。大きな林があって、セミはいっぱい、いたし、アイスキャンデー屋さんもいた。それから、海岸で、一人で大きい木の船を作っている、おじさんとも遭った。かなり船の形が出来上がっていたから、朝起きると、みんな、どれくらい昨日より、出来ているか、走って、見に行った。トットちゃんは、薄く長く出来た、カンナクズを、おじさんから、おみやげに、もらった。お別れの日、校長先生がいった。「どうだい。記念写真を撮ろうじゃないか」それまで、みんな一緒に写真って、撮ったことがなかったから、また、みんなは興奮した。だから、「はい、撮りますよ」って女の先生が言うとき、誰かがトイレに行ってたり、「さあ、いいですね」というと、運動靴の右と左が逆だったから、はき直す,という子がいたり、その間中、ずーっと緊張してポーズを取っていて、本当に、「じゃ、いきます!」というときに、「ああ、疲れた。もうダメだ!」といって、ねっころがる子もいて、とっても時間がかかった。でも、海を後ろにして、思い思いのポーズをして撮った写真は、子供達も宝物になった。その写真を見れば、船のことも、温泉のことも、オバケの話しのことも、「オットットットット!」の子の事も,一度に思い出せるからだった。こうして、トットちゃんの初めての夏休みは、絶対に忘れることの出来ない、いろんな楽しい思い出を残して過ぎていった。まだ東京でも、近くに池には、ザリガニがたくさんいて、大きい牛が、ゴミ屋さんの車を引っ張って歩いている頃の、ことだった。

    夏休みも終わり、二学期が始まった。夏休みの間、いろんな集まりのたびに、トットちゃんは、クラスのみんなとは勿論、上級生の一人一人とも親しくなった。そして、トモエ学園のことが、もっともっと好きになっていた。 トモエは、普通の小学校と授業方法が変わっている他に、音楽の時間が、とても多かった。音楽の勉強にも、いろいろあったけど、中でも「リトミック」の時間は、毎日あった。リトミックというのは、ダルクローズという人が考えた、特別のリズム教育で、この研究が発表されると、1905年(明治三十八年)頃のとこなんだけど、全ヨーロッパ、アメリカなどが、いち早く注目して、各国に、その養成所とか、研究所とか、できたくらいだった。で、どうして、このトモエにダルクローズ先生のリトミックが入って来たのか、といえば、こういう、いきさつだった。 校長の小林宗作先生は、トモエ学園を始める前に、外国では、子供の教育を、どんな風にやっているかを見るために、ヨーロッパに出発した。そして、いろんな小学校を見学したり、教育者といわれる人達を聞いたりしていた。そんな時、パリで、小林先生は、素晴らしい作曲者でもあり、教育者でもあるダルクローズ、という人に出逢い、このダルクローズが、長い間、 「どうしたら、音楽を耳でなく、“心で聞き、感じる”ということを子供に教えられるだろうか。生気のない教育ではなく、動きのある生きている音楽を感じ取ってもらうには……。どうしたら子供の感覚を目覚めさせられるだろうか?」 ということを考えていて、遂に、子供達の、自由に飛び跳ねるのを見ていて発見し、創作したリズム体操、「リトミック」というものがあることを知った。そこで、小林先生は、パリのこのダルクローズ学校に一年いようも滞在して、リトミックを身につけた。少し歴史的な話になるけれど、日本人で、このダルローズの影響を受けた人は多く、山田耕作を始め、モダンダンスの創始者石井漠、歌舞伎の二代目市川左団次、新劇運動の先駆者小山内薫、舞踊家伊藤道郎。こう言った人達も、リトミックが、あらゆる芸術の基礎である、ということで、ダルクローズに学んだ。でも、このリトミックを、小学校の教育に取り入れてみようとしたのは、小林先生が初めてだった。 「リトミックって、どういうものですか?」 という質問に、小林先生は、こう答えた。 「リトミックは、体の機械組織を、さらに精巧にするための遊戯です。リトミックは、心に運動術を教える遊戯です。リトミックは、心と体に、リズムを理解させる遊戯です。リトミックを行うと、正確が、リズミカルになります。リズミカルな性格は美しく、強く、素直に、自然の法則に従います。」 まだ、いろいろあるけれど、とにかく、トットちゃん達のクラスは、体にリズムを理解させることから始まった。行動の小さいステージの上のピアノを校長先生が弾く。それに合わせて、生徒は、思い思いの場所から歩き始める。どう歩いてもいいけど、人の流れと逆流して歩くと、ぶつかって、気持ちが悪いから、なんとなく、同じ方向に、つまり、輪になる形で、でも一列とかじゃなく、自由に流れるように歩くのだった。そして、音楽を聴いて、それが“二拍子”だと思ったら、両手を大きく指揮者のように上下に二拍子に振りながら、歩く。足は、ドタドタじゃなく、そうかといって、バレエのような、つま先立ちでもなく、どっちかっていえば、「足の親指を引きずるように、体を楽に、自由にゆすれる形で、歩くのが、いい」と先生はいった。でも、いずれにしても、自然が第一だったから、その生徒の感じる歩き方でよかった。そして、リズムが三拍子になったら両腕は、すぐに三拍子を大きくとり、歩き方も、テンポに合わせて、早くなったり、遅くなったりさせなきゃ、いけなかった。そして、両腕の指揮風上げ下ろしも、六拍子まであったから、四拍子くらいだと、まだ 「下げて、まわして、横から、上に」 ぐらいだけど、五拍子になると、 「下げて、まわして、前に出して、横にひいて、そのまま上に」 で、六拍子になると、もう、 「下げて、まわして、前に出して、もう一度、胸の前で、まわして、横にひいて、そのまま上に」 だから、拍子が、どんどん変わると、結構難しかった。そして、もっと難しいのは、校長先生が、時々ピアノを弾きながら、 「ピアノが変わっても、すぐには変わるな!」 と大きい声で、いうときだった。例えば、それは、初め、“二拍子”のリズムで歩いていると、ピアノが“三拍子”になる。だけど、三拍子を聞きながら、二拍子のままで歩く。これは、とても苦しいけど、こういうときに、かなり、子供の集中力とか、自分の、しっかりした意志なども養うことが出来る、と校長先生は考えたようだった。 さて、先生が叫ぶ。 「いいよ!」 生徒は、「ああ、うれしい……」と思って、すぐ三拍子にするのだけど、このときに、まごついてはダメ、瞬間的に、さっきの二拍子を忘れて、頭の命令を体で、つまり筋肉の実行に移し、三拍子のリズムに順応しなければ、いけない、と思った途端に、ピアノは、五拍子になる、という具合だった。

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