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うしろから見ると彼女の腰はびっくりするくらいほっそりとしていた。まるでこしをがっしりと固めるための成長の一過程が何かの事情でとばされてしまったんじゃないかと思えるくらいの華奢《きゃしゃ》な腰だった。そのせいで普通の女の子がスリムのジーンズをはいたときの姿よりはずっと中性的な印象があった。流しの上の窓から入ってくる明るい光が彼女の体の輪郭《りんかく》にぼんやりとふちどりのようなものをつけていた。
「そんなに立派な食事作ることなかったのにさ」と僕は言った。
「ぜんぜん立派じゃないわよ」と緑はふりむかずに言った。「昨日は私忙しくてろくに買物できなかったし、冷蔵庫のありあわせのものを使ってさっと作っただけ。だからぜんぜん気にしないで。本当よ。それにね、客あしらいの良いのはうちの家風なの。うちの家族ってね、どういうわけだか人をもてなすのが大好きなのよ、根本的に。もう病気みたいなものよね、これ。べつにとりたてて親切な一家というわけでもないし、べつにそのことで人望があるというのでもないんだけれど、とにかくお客があるとなにはともあれもてなさないわけにはいかないの。全員がそういう性分なのよ、幸か不幸か。だからね、うちのお父さんなんか自分じゃ殆んどお酒飲まないくせに家の中もうお酒だらけよ。なんでだと思う?お客に出すためよ。だからビールどんどん飲んでね、遠慮なく」
「ありがとう」と僕は言った。
それから突然僕は水仙の花を階下に置き忘れてきたことに気づいた。靴を脱ぐときに横に置いてそのまま忘れてきてしまったのだ。僕はもう一度下におりて薄暗がりの中に横たわった十本の水仙の白い花をとって戻ってきた。緑は食器棚から細長いグラスをだして、そこに水仙をいけた。
「私、水仙って大好きよ」と緑は言った。「昔ね高校の文化祭で『七つの水仙』唄ったことあるのよ。知ってる、『七つの水仙』?」
「知ってるよ、もちろん」
「昔フォーク?グループやってたの。ギター弾いて」
そして彼女は「七つの水仙」を歌いながら料理を皿にもりつけていった。
緑の料理は僕の想像を遙かに越えて立派なものだった。鯵の酢のものに、ぽってりとしただしまき玉子、自分で作ったさわらの西京漬、なすの煮もの、じゅんさいの吸い物、しめじの御飯、それにたくあんを細かくきざんで胡麻をまぶしたものがたっぷりとついていた。味つけはまったく関西風の薄味だった。
「すごくおいしい」と僕は感心して言った。
「ねえワタナベ君、正直言って私の料理ってそんなに期待してなかったでしょ?見かけからして」
「まあね」と僕は正直に言った。
「あなた関西の人だからそういう味つけ好きでしょ?」
「僕のためにわざわざ薄味でつくったの?」
「まさか。いくらなんてもそんな面倒なことしないわよ。家はいつもこういう味つけよ」
「お父さんかお母さんが関西の人なの、じゃあ?」
「ううん、お父さんがずっとここの人だし、お母さんは福島の人よ。うちの親戚中探したって関西のひとなんて一人もいないわよ。うちは東京?北関東系の一家なの」
「よくわからないな」と僕は言った。「じゃあどうしてこんなきちんとした正統的な関西風の料理が作れるの?誰かに習ったわけ?」
「まあ話せば長くなるんだけどね」と彼女はだしまき玉子を食べながら言った。「うちのお母さんというのがなにしろ家事と名のつくものが大嫌いな人でね、料理なんてものは殆んど作らなかったの。それにほら、うちは商売やってるでしょ、だから忙しいと今日は店屋ものにしちゃおうとか、肉屋でできあいのコロッケ買ってそれで済ましちゃおうとか、そういうことがけっこう多かったのよ。私、そういうのが子供の頃から本当に嫌だったの。嫌で嫌でしょうがなかったの。三日分のカレー作って毎日それをたべてるとかね。それである日、中学校三年生のときだけど、食事はちゃんとしたものを自分で作ってやると決心したわけ。そしれ新宿の紀伊国屋に行って一番立派そうな料理の本を買って帰ってきて、そこに書いてあることを隅から隅まで全部マスターしたのまな板の選び方、包丁の研ぎ方、魚のおろし方、かつおぶしの削り方、何もかもよ。そしてその本を書いた人が関西の人だったから私の料理は全部関西風になっちゃったわけ」
「じゃあこれ、全部本で勉強したの?」と僕はびっくりして訊いた。
「あとはお金を貯えてちゃんとした懐石料理を食べに行ったりしてね。それで味を覚えて。私ってけっこう勘はいいのよ。論理的思考って駄目だけど」
「誰にも教わらずにこれだけ作れるってたいしたもんだと思うよ、たしかに」
「そりゃ大変だったわよ」と緑はため息をつきながら言った。「なにしろ料理なんてものにまるで理解も関心もない一家でしょ。きちんとした包丁とか鍋とか買いたいって言ってもお金なんて出してくれないのよ。今ので十分だっていうの。冗談じゃないわよ。あんなベラベラの包丁で魚なんておろせるもんですか。でもそういうとね、魚なんかおろさなくていいって言われるの。だから仕方ないわよ。せっせとおこづかいためて出刃包丁とか鍋とかザルとか買ったの。ねえ信じられる?十五か十六の女の子が一生懸命爪に火をともすようにお金ためてザルやる研石やら天ぷら鍋買ってるなんて。まわりの友だちはたっぷりおこづかいもらって素敵なドレスやら靴やら買ってるっていうのによ。可哀そうだと思うでしょ?」
僕はじゅんさいの吸物をすすりながら肯いた。
「高校一年生のときに私どうしても玉子焼き器が欲しかったの。だしまき玉子を作るための細長い銅のやつ。それで私、新しいブラジャーを買うためのお金使ってそれ買っちゃったの。おかげでもう大変だったわ。だって私三ヶ月くらいたった一枚のブラジャーで暮らしたのよ。信じられる?夜に洗ってね、一生懸命乾かして、朝にそれをつけて出ていくの。乾かなかったら悲劇よね、これ。世の中で何が哀しいって生乾きのブラジャーつけるくらい哀しいことないわよ。もう涙がこぼれちゃうわよ。とくにそれがだしまき玉子焼き器のためだなんて思うとね」
「まあそうだろうね」と僕は笑いながら言った。
「だからお母さんが死んじゃったあとね、まあお母さんにはわるいとは思うんだけどいささかホッとしたわね。そして家計費好きに使って好きなもの買ったの。だから今じゃ料理用具はなかなかきちんとしたもの揃ってるわよ。だってお父さんなんて家計費がどうなってるのか全然知らないんだもの。」
「お母さんはいつ亡くなったの?」
「二年前」と彼女は短く答えた。「癌よ。脳腫瘍《のうしゅよう》。一年半入院して苦しみに苦しんで最後には頭がおかしくなって薬づけになって、それでも死ねなくて、殆んど安楽死みたいな格好で死んだの。なんていうか、あれ最悪の死に方よね。本人も辛いし、まわりも大変だし。おかげてうちなんかお金なくなっちゃったわよ。一本二万円の注射ぽんぽん射つわ、つきそいはなきゃいけないわ、なんのかのでね。看病してたおかげで私は勉強できなくて浪人しちゃうし、踏んだり蹴ったりよ。おまけに―」と彼女は何かの言いかけたが思いなおしてやめ、箸を置いてため息をついた。「でもずいぶん暗い話になっちゃったわね。なんでこんな話になったんだっけ?」
「ブラジャーのあたりからだね」と僕は言った。
「そのだしまきよ。心して食べてね」と緑は真面目な顔をして言った。
僕は自分のぶんを食べてしまうとおなかがいっぱいになった。緑はそれほどの量を食べなかった。料理作ってるとね、作ってるだけでもうおなかいっぱいになっちゃうのよ、と緑は言った。
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